死ぬまでにしたいいろんなこと

墺太利(おーすとりあ)滞在6年

自宅待機20日目:ちょっと疲れてきた

明日で自宅待機3週間目が終わる。自由にどこかに行けない閉塞感がつもりつもって影響しているのか、ここ数日、身体が重い感じがし、運動するのもだるかったり、精神的にもいまいちやる気が出ない。とはいえルーティン(最低限の運動と語学学習)は普通に行えている。

 

日本にいる数少ない友人からは、お肉券やらマスク2枚/世帯という、え?エイプリルフールとかじゃないよね?っていうニュースが届き、日本の皆さんは大丈夫かしら?と遠い国から思いを馳せている。

 

他国に比べ人口の割に死者が少ないとか感染者が少ないっていうのはまあよかったにせよ(もちろんなぜかということを科学的に突き止めることは必要として)、だからと言って対策がまとまってないというか一丸となってないというか。マスクも例えば「医療従事者や必要な人に使い捨ての高品質のマスクが行くように、普通の人は布マスクで十分なんです」「全員が感染していると仮定して行動する。他の人にうつさないためには布マスクで十分」「なので医療用マスクの買い占め厳禁」とかそういう、根拠のある説明をしてくれれば納得いくんでしょうけど、日本にいる家族と話した感じ、ほとんどの民はその政策に至った根拠を理解していないと思われる。私もよくわかりません。

 

東京近郊に住む友人宅の近くのドラッグストアでは、マスクが入荷しても一定の人間が早朝開店前に並んでいて全部買い占めていってしまうので、仕方なく布で手作りしているという。彼女は働きながら赤子を育てているので、とてもじゃないが開店前のドラッグストアに並ぶ元気はない。

 

別の友人は仕事で防塵マスクが必要なのだが、一般人による買い占めによって入荷しなくなったため、防塵用でないものや、古いものを使いまわしたりして、危険な状態で仕事をしている。

 

 

そういう悲しい話のせいで、落ち込んでしまっているのかもしれない。

 

本当に本当に本当に生死が関わる場面以外では、

「自分さえよければいい」

という態度を、やめられないだろうか。

自分の行動の後先を、他人の目を気にするのでは無く、他人の話を鵜呑みにするのでも無く、自分の倫理観と知識に照らし合わせて考え、行動を決定できないだろうか。

 

自分へのリマインダー。

 

ちなみに「本当に本当に本当に生死が関わる場面での倫理的道徳的生き方と生存率」に関しては、ウィーン生まれの著者のこちらの本が考えるきっかけになると思う。

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 (以下に少し引用)

 

『収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と』

ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版

 

私は自分が非常時の時にいい人でいられる自信なんてないし、それが正しいか否かなど答えられない。だってアウシュヴィッツみたいな状況に置かれたことなんかない。

 

少なくとも私にとっては今は、「本当に本当に本当に生死が関わる場面」ではないということだ。だからウィルスが「本当に生死に関わる人」のことを考えて、そのように行動したい。