今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」
祖母の話を書こうと思う。
父方の祖母で、もうだいぶ前に亡くなってしまった。
でも、たしか、米寿のお祝いをしたのが元気で会った最後だったから、大往生だった。
祖母は、田舎の山あいの村で生まれて、育って、結婚して、ずっとそこで生きてきた。
祖父が亡くなってからは長男一家と、同じ場所に住んでいた。
それがある時、突然、我が家(東京に出てきた次男坊一家)で暮らすことになる。
ある時、祖母のいる村で震災が起こった。
祖母はタンスの下敷きになり頭を打ったが、幸い出血だけで済んだらしい。
当時もう80歳を超えていたと思う。
少し認知症も始まっていたし、持病があるため、とにもかくにも祖母だけでも、ということで、
父が車で祖母を東京に連れてきた。
当時私は受験生で、
思春期特有の、自分をどう扱っていいかわからない、
ものすごい苦しみのなかにいた。
勉強になんて全く身が入らず、他のことでもそのイライラを消化できず、
とにかくとにかく苦しかった。
で、ある日、朝起きたら、食卓に祖母がいた。
そして私に、
「やもり、おもしー顔になったがー」と言った。
(おもしろい顔になった、の意。私は当時、ストレスによるむちゃ食いでぶくぶくに太っていた・・・)
それからしばらくの日々、私は「祖母の相手」という免罪符を得た。
学校から帰るとすぐ、祖母とお茶を飲んだ。
湯呑みだと手がすべってしまうので、祖母は私が小さい時に使っていた取っ手付きのカップでいつもお茶を飲んでいた。
ふちのところにペンギンの絵が描いてあって、ぐるりと一周、ペンギンが歩いている。
祖母はお茶を飲み終わると、必ずペンギンを数え、
「9羽」と満足そうに、誰にともなく報告してから、カップをテーブルに置いた。
祖母にとっては、毎回、初めて見るペンギンのカップだったのだ。
私はいつもそれから「おばあちゃん、散歩に行く?」と聞いた。
祖母は、外がどんな天気でも、絶対にイエスと言った。
雨の日は、集合住宅の廊下を、杖でゆっくりと往復し、最後にエレベーターに乗り、降りて、ポストをのぞいて、またエレベーターで登る。
祖母はいつも自分でエレベーターのボタンを押し、カカカ、と、おもしろそうにわらった。
休みの日は、父の運転でいろんな所に出かけた。
外出が好きな祖母で、どこに連れて行っても喜んだ。
そう、祖母は「帰りたい」とか「戻りたい」とか全く言わなかった。
いつも
「(長生きすると)おもしーこともあるがー」
(おもしろいこともあるもんだ、の意)
とわらっていた。
数ヶ月して、仮設住宅のメドがたち、祖母は帰って行った。
私たちと暮らしている時、祖母が震災について話したことといえば、
「自衛隊のヘリに乗せてもらった!」
(乗せてもらったっていうか、病院に搬送されたんですけど・・・)
ということ。そんな感じだった。
夕方、よく再放送の「水戸黄門」とか「大岡越前」とかを一緒に見た。
ある日、テレビをつけると、時代劇がやってなくて、かわりに人気だった医療ドラマの再放送が流れていた。
私は生物学全般が好きで、志望になんとなく医学部も入っていたし、医療の話は好きだったので、ドラマをつけっぱなしにしていた。
祖母が悲しそうにテレビを見ているので、私はてっきりストーリーを勘違いしているんだと思い、
「これはこういう手術で、この人はこんな病気で〜」と解説すると、祖母が血相を変えて、「やもり、お前医者なのか。医者にだけはなってくれるな」という。
私が「私まだ高校生だし、医学に興味はあるけど、まだわからないよ〜」と言うと、
「とにかく医者だけはやめてくれ」と泣きそうな顔で言う。
結局、私は医者にはならなかったが、祖母がなぜあんなことを言ったのか、
理由は聞きそびれたままだ。
それから祖母の認知症はだんだん進んでいった。
持病もゆっくり悪化していった。
最後に病院のベッドで会った祖母は、高熱でうなされて、
もう、誰が誰だかもわからなくなっていた。
なんで祖母はあんなに明るくいられたんだろうか。
そしてなんであんなに医者が嫌いだったんだろうか。
歳をとってから環境がかわって、祖母のようにいられる人は、きっと少ない。
↓
違う震災ですが、似たような境遇のおばあさまが出てきます。
明るいタッチでかかれていますが・・・